一定の条件が揃ったとき、昔の感覚が戻ってくることがある。中学1年生の授業中、午前11時くらいの窓際の席から空をみていたときのあの感覚。朝に比べて雲の量が増えてきて、明るさも増してきて、椅子にじっと座っていることがたまらなくもどかしくなる。授業なんてまったく聞いていない、だって、もう塾で済ませた内容だから。そんなことよりも走り出したいし、それこそなんだってできるような気がする。もちろん、空を飛ぶことも。空を眺めながら、そこに浮かぶ自分の姿を想像する。そこから見える景色も。

 

止まらないこの気持ちも、ただ楽しく、嬉しいわけじゃない。なんとなく苦しいような、寂しいような。少し緊張していて、でも限りなく期待している。実際に心臓のあたりが痛み、深く息を吸うことが難しい点、 恋に近い感覚かもしれない。でもそれとも大きく異なっている。誰かに言われてうれしかった言葉を何度も自分の中で反復してみたり、行きたかったのに行けなかった場所について考えたり、大切にしていたのに、今や大切にできなくなったものたちについて思い出したりする。その理由を自分なりに組み立ててみるけれど、もちろんそれで納得がいくわけでもないし、かといって今それらに対し、何か特定の願望もない。

 

努力がしたい。いくらでも努力してみたい。何を?そして何のために?目的はそもそも、必要なのだろうか。なにかしら自分が多少苦しんででも達成したい未来を想像する。しかしそれが享楽的なものではだめで、自身に対して誇れるようなものでなくてはいけない。

 

窓際の席で授業を受けていたあのとき、朝から昼過ぎにかけて雲の量が増え、形もどんどん膨らんで美しくなってくることについて、その美しさと嬉しさについて、色々な人に話したけれど、誰も共感してくれなかった。

美術の授業で校庭の絵を描いていて、絵の具を塗るときになって、「どこまでが地上で、どこからが空なのか」と疑問に感じた。土の色と水色を使い分ける必要があったので、これは実際に具体的な問題だった。結局迷った末に地面だけをほんの少し茶色で塗ったあと、それ以外の空間は全部背景を水色にした。しかしここでまた疑問が生まれる。
つまり、私が今いるこの空間も、地面についている足元以外はもはや空なのだろうかー この答えはまだわからない。そうであってほしいような気もするが、どうしても、さすがにそうだとは思えない。一度飛んで、上のほうまで行ってきたら、何かわかるのだろうか。

 

今、私はもはやあの教室にはいないし、中学生でもないし、時間の経過に伴う雲の量の変化以外に、考えなければいけないことがたくさんある。しかしわかりきっている、これは単なる言い訳であって、あの頃だってそれなりに、または、もしかしたらもっと多くのことを考えていた。今は電車の窓から外をみている。建物や木や電柱が横に、横に、流れていく。あのときと同じ、何かへの期待で、心臓が少し痛む。何を期待しているのか、何を体験したら、与えられたら、成し遂げたら、もしくは誰に、どうしてもらえれば満足なのか、いまひとつ見当がつかない。普段自分が掲げている目標とか、そういうのとはまた種類が違う。間違いなくいえるのは、この感覚の一番の原因は、春であるということ。

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