長い廊下を歩いている。歩いているというよりも、滑っているといったほうが正しいかもしれない。前に進んではいるものの、脚をまったく動かしていないのだから。昨日少し飲み過ぎたみたいに胃の奥が重い、しかし昨日は水だけを飲んで早い時間に眠ったはずだった。

 

ドアがある。ここでノックをしてみたり、ドアノブを回してみたりしたら、誰かしらの、何かしらの意図通りになってしまう気がした。なんだかそれも気に入らないので、これみよがしに反対方向を向いて、また歩き始める。すると例によってドアが勝手に開いたので、私も仕方なく、例によってその中に入ってみる。ここまできたら成り行き通りに行動してみるしかないという諦めの気持ちと、ここでその通りにしなかったらこの世界から見捨てられてその後何も起こらないのではという不安があったからである。

 

ドアの中に入ると、足元が水浸しだった。ここで非常にありきたりな展開に遭遇する。つまり、ドアが勝手に閉まる。そして例によって、部屋の中には電気がついていなので真っ暗になってしまう。どこかから水が漏れだしている音がする。真っ暗で何も見えず、足元の水の冷たい感触だけがはっきりと自覚できる。次に何が起こるのか、そのまま待ってみたが何も変わらない。ずっとこのままでいるのも避けたかったので、一旦歩き始めてみる。コウモリが高い声で鳴きながら飛び交っていたらより雰囲気が出るのに、と思ったが、生き物は私の他にだれもいない。

 

歩いていたら、床に穴が開いていて落下した。下は海になっていて、私は冬の冷たい海にそのまま放り出される形となった。しかも近くには2隻の船があって、お互いに大砲を撃ち合っている。巻き込まれたくなかったので、なるべく遠くに離れるために泳ぐ。一刻も早くここから逃げたいと思う一方で、撃たれたとしても少し痛いくらいで済むのではと考える。ただひたすらに寒い。

 

船は結局2隻とも撃ち落とされてばらばらに分解し、沈没してしまった。みんな流されてしまって、そこにあるのは残骸のみ。生き残っている人は見当たらない。陸まではかなりの距離があり、泳いで渡ることは不可能なようだった。

 

これからどうしようかなと考えていたときに、白いシャツを着た眠そうな男がその残骸の上に現れて、次の瞬間私は病院のような、真っ白で洗練された冷たい建物の中にいた。

 

その男は、長い髪に長い指、細い目をしていて、明るい光が眩しいようだった。薄い唇を少しだけ緩めて言った。「早くここを出たほうが良さそうだ。」

 

「でも、帰れなくなってしまって」。それにもう少し優しくされたかった。「助けてくれてありがとう。ここに連れてきてくれて」

 

「連れてきたわけじゃない」。そう言われたものの、もう疲れていて、私はこの男にもたれかかろうとしていた。なんでもいいから暖まりたかった。しかし男は立ち上がり、壁の前の机に向かって何かを書き始めたきり一言も話さなくなってしまった。

 

ひととおり歩きまわってみる。白い壁、白い床、白い天井、それに白く四角い家具。なにもかもが白くて、静かで、冷たくてどこまでも広い無機質な空間。でも不思議と優しくて寂しい雰囲気の部屋だった。私と男の他には誰もいないし物音もしない。

 

「さっきまで海にいたから、寒くなっちゃって。シャワーとか借りてもいいですか?」あまりに静かだったので聞いてみる。男は顔を上げて、目で私の立っている後ろを示した。うしろにはいつのまにか浴室が現れていて、仕方ないからそこで湯船に浸かった。その間男は一度も顔を上げずにずっと何かを書いていた。

 

しばらく記憶が抜け落ちている。気が付くと私は湯船から上がり、白い服に着替えて立っていた。目の前には死んだ人が5人横たわっていた。死んでいるとはいえ、あくまで眠っているように、きれいに静かにそこに並んでいた。それぞれの体から2メートルくらい上の部分に半透明の湯気のようなものがでていて、それが人ごとに違った形を描いていた。一人は緑色で、葉っぱのような形をしていた。もうひとりは赤で、子供の落書きのような乱れた形になっていた。そしてそれを、あの男がひとつひとつ吸い込むようにして食べていた。

 

「ここはこういう場所なんだよ。」男は言った。私は別にびっくりしなかった。「どんなふうに生きてきたかで、この作品の形が変わる。僕はそれを吸い込んで生きている。死んで、作品を発表する人間。そしてそれを食べる人間。ここにはその2種類しかいない。君はどちらでもないのだから、早く帰らなければ。」

 
試しに後ろから抱きついてみる。彼の細い体をこうして包み込んでいると、まるで私がこの人を保護しているかのような錯覚に陥る。意外にとてもあたたかい。この場所の、美しさ、悲しさ、優しさ、寂しさの理由が理解できた。何も手に入らなくても、こういった静けさを忘れずにいつでも心のなかで再現できるようになることが、自分にとって必要であると感じた。部屋の中に柔らかく雪が降りはじめた。