学校でいじめられている・ハブられている・うまくやっていけないと感じている小学生・中学生・高校生に。その気持ちがたぶんわかる25歳のお姉さんが伝えたいこと


今日、電車でこのような光景を見た。

 

高校生の、同じ制服を着た女の子が4人、私の向かいに座っていて、そのうちの3人がみんなでLINEでメッセージを送り合ってくすくす笑い合い、残りの1人の子は、ずっと下をむいてスマホをみていた。どうやら、3人は、残りのひとりの子の悪口を言っているようだった。私と同じ場所で彼女達は降りて、楽しそうな3人に続いて、少しだけ距離を空けてもうひとりの女の子はとぼとぼと付いて行っていた。

 

恐らく、「ハブられている」であろうその子は、気の弱そうな美人だった。私はその場にいて、すごく傷つき、憤りを感じて、残りの3人に何か言ってやりたい衝動に駆られたが、どうせあとでまた3人で盛り上がるためのネタにされるのがオチで、かえってあの子を苦しめる結果になると思ったので、何もできなかった。気づいてあげられたのかもしれないのに、何もできなくて、本当にごめん、と思う。だから、せめて今、同じような問題で心を痛めているであろう日本中の小・中・高校生にむけて、私からいくつか伝えたいことがあるので書くことにしました。

 

まず最初に自己紹介。私はポケモンが151匹しかいなかった世代(笑)の25歳のお姉さんです。今は会社を経営していて、世界規模のwebサービスを作りたい、自分のつくったもので多くの人を楽しませて、幸せにしたいと思ってがんばっていて、すごく充実した毎日を送っています。

でも私は、小学生の頃から、勉強をすごくがんばっていたから比較的優等生だったけど、どうしても、いわゆる「女子のグループ」というのが苦手でした。誰かが常に誰かの悪口を言っている、仲良くしているのに本当は嫌っている、みんなで誰かを一緒になって傷つけることが日常茶飯事な状況に、本当に耐えられなかったタイプの人間です。

 

中学時代、3人組のグループで仲良くなりました。で、よくある話だけど、好きなアーティストが違うとか、私が誕生日にプレゼントをあげ忘れた、とか、なんか色々と重なって、その2人に一時期うまく馴染めなくなってしまったことがあります。2人だけでどこかに出かけたり、メールをしたりしていたようで、あの時期は本当に、辛かった。だから今のみなさんの気持ち、今日の電車で出会ったあの子の気持ちが、すごくよくわかる。

自分がその場に歓迎されていないということをしっかりと感じながら、それでも、そこにいなくてはいけない、って思うんですよね。だってそれをやめてしまったら、これから先、お昼休みも、修学旅行も、音楽や体育の移動もぜんぶ、一緒に過ごす相手がいなくなってしまうから。トイレにすら行きづらくなってしまう。想像できない人もいるかもしれないけれど、中学生女子があるグループを抜けて他のグループに入れてもらうというのは、国籍を変えて別の国の国民にしてもらうくらい、本人たちにとってはハードルの高いことなのです。

あんな思いをするくらいなら自分ひとりでいたほうがはるかに気が楽なんだけど、でも、みんながみんなグループでいて、自分だけがひとりでいる、それをみんなに見られてしまうことが非常に苦痛で。それらのリスクを勘案した結果、我慢してでも、居心地が悪くても、その場に居座ったほうがいいという結論に至る。というかそれしか選択肢がないんですよね。それでも私は当時、なるべく「自然に」一緒にいる時間を短くするために、昼休みは「図書館で勉強をしないと塾の宿題が終わらないから」と言い張って自分から遠ざかってみたりしていました。

別に、いじめられていたわけでもないし、彼女たちもそこまでの悪気はなかったはず。でも、当時は学校の中の、その小さな小さなコミュニティが自分の社会的な居場所の全てで、そこで楽しくやれない、ということは、わたしには全世界から拒否されていると思えてしまうくらいショックだった。朝が来るのがこわいから、眠るのが嫌だった。彼女たちと仲良く遊ぶ夢を何度もみた。でも、なんだかんだあって、いつのまにか関係性は普通に戻っていました。ほんの一瞬のことだったのかもしれない。でも私は当時、「こんなに小さな世界ですらうまくやれなかった自分は、この先の将来ももしかしたら難しいのではないか。」と考えてしまいました。

さて、そういうわけで、そんな私がみんなに言いたいことを下記に書きます。

 

1.無理して学校に行かなくていいと思う

上記の状況もあり、あとは毎日が同じことの繰り返しで本当にバカバカしくなってしまって、私は一時期、数週間くらいですけど、学校を休んでいました。その間にも塾にはしっかり通って、勉強をがんばって、残りの時間は小説を読んだり、ネットの掲示板を見たりしていました。(このときにネットで「いろんな考え方の人がいるんだ」って世界が広がって救われた経験が、今の仕事につながっていると思います)

そういうのもあって、どうやら当時の私以外の2名は「うちらのせいであの子が不登校になったらヤバイ」とか思って、態度を改めてくれた節もあったようです。学校で嫌なことがあったら、行かない、というのはある意味明確な意思表示であり、抵抗にもなりうる。しかもみなさん、ブラック企業もそうですけど、明らかに正しくない扱いを受けている場に、無理して身を置くというのは、全然正義じゃないと思います。その場所、環境、時代によって常識やルールはどんどん変わっていくもの。服を着たあなたが裸族のグループにいれば異端児になる。あと一時代早く生まれていたら誇りを持って戦争に行き、人を殺して正義だったかもしれない。などなど。

あなたと周囲のルールが食い違っていたからといって多数派が一方的に正しいわけではないってことです。まあそんなわけで、自分がたまたま身を置いたその場所で、たまたま楽しくなかったとして、なるべく一生懸命合わせようとして、それでもどうしてもつらすぎる場合は、潔く行くのを辞めるというのもひとつの手段だと思います。無理やり通って、思いつめて死んでしまったというような痛ましい事件をきくと、本当にそう思います。

 

2.「大人になったらもっと大変なんだから」は嘘。大人になると断然楽になるよ。私は中学がいちばん大変だったし、今が一番楽しい。

大人になると、自分でやらなければいけないことが増える代わりに、自分の生き方を自分で選べるようになるから、決められた学校に毎日通わなければならなかった学生時代より、人間関係はずっとずっと楽です。今、すごくつらいあなた。今がピークだと思っていいよ。むしろ今を辛さのピークにできるかどうかは今のあなたにかかっている。この先に自分の人生を自分で決められるようにするためには、

 

3.勉強は、とにかくしっかりやっておいたほうがいい。

本当にこれに尽きます。自分の将来を、自分で選択するためには一定の力をつけておくことが非常に重要です。あと、本もたくさん読みましょう。今身につけた「努力する能力」「考える力」は一生の武器になる。私は一番入りたかった高校に入り、東京に出て色々な経験がしてみたかったから受験勉強をして明治大学に入り一人暮らしを始めて、それから一番入りたかった広告系の会社に入り、それから自分で新しいチャレンジがしたいと思って、会社を作って、好きな人だけ集めて仲間になってもらって、毎日新鮮な気持ちで暮らしています。

好きな学校に入るのも、やりたい仕事をみつける・あるいは作るのも、好きな人たちと一緒にいられるのも、全て自分の身につけてきた能力にかかっています。だからあの頃、学校が本当にくだらなくて、クラスの人がみんな信じられなくて、それでも自分の将来にだけはしっかりと夢をもって、努力を真剣に続けてきて本当によかったと心から思う。勉強をして、将来の夢を叶える手段を調べて、毎日の自分を少しでも向上させるために日記を書いて、たくさん本を読んでいました。みなさんも、今はたまたま置かれた環境の運が悪かったかもしれないけど、大人になったら自分でそれを作っていけるから。作っていけるためにも、選択肢を広げるためにも、どうか勉強を頑張ってほしいです。勉強に限らず、何かに対する努力を続けてください。

 

4.いじめをする側にもかわいそうな部分はある。あなたは一歩先に少し大人になって、勝手に許してあげよう。

私はただ、グループに上手く馴染めなかったというだけだったけど、当時の中学にはいわゆるれっきとした「いじめ」も存在していました。その主犯格だった子たちは、ほとんどの場合家庭で苦労していたり、行きたくても、お金の問題で高校に行けなかったり、そのような状況でした。あたたかい家庭で幸せに暮らしていて、高校生活に期待を膨らませながら受験勉強に集中していたら、他人をいじめようなんて思わなかったはず。そんな恵まれた状況の他人を憎んでしまうのはある意味仕方ない部分もある。自分の状況にこれ以上の向上が見込めなかった場合、他人を傷つけ貶めて、相対的に自分が優位に立つしかやり方がわからなかったんだと思う。今なら、そう思える。

だからみんなも、ある意味ではそこを理解してあげましょう。問題はもっと深いところにあるのであって、その原因を被害者である自分の中に探して必要以上に傷つかないでください。

 

つまり簡単にいうと、「無理しすぎないで。そして、強くなって、優しくなってね」ということです。一番大事なのはやはり、強くなること。強さとは、この場合は賢さとか知恵とか思慮深さとか勇気とか、努力できる能力とか、そういうこと。今、辛い状況にいたとしても、自分で努力して培ってきた強さと「自分の人生を自分で選択し、作る能力」は、必ず一生あなたを支えてくれるから。

 

今日の電車で出会った彼女にも、どうか届きますように。

 

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ちなみに私は若い感性を失わないでいることが一番たいせつだと思っていて、小学生・中学生・高校生のお友達がほしいなあと常に思っています。色々とみなさんから学ばせてもらいたいな、と。私とお話してみたい!と思ってくれる小中高の学生さん(専門学校生さんなどももちろん含む)はTwitterでリプライください!いつか一緒にお菓子でも食べましょう^^!小学生とでも対等にしゃべれるのが私の長所です(笑)それは、小学生がどれだけ高い理解力と感性をもっているか理解していて、まったくレベルを下げないで、尊敬して話せるからだと思う。

SNSで中途半端な承認欲求が満たされ、渇望感を欠いてしまっていたら、ダ・ヴィンチはモナリザを描き上げていない可能性がある


何か思うことがあったり、世の中に対してすごく言いたいことがあったり、社会に対して「この部分を、このように変えたい」と感じることがあったとする。
それを誰かに聞いてもらいたい。共感してもらいたい。認めてもらいたい。実際に結果として残したい。
そんなときに、どうするか?ということを考えたので。

私は大学生の頃、何かすごく言いたいことがあった。「言いたいこと」というのは別に、何かを批判するとか抗議するとかそういう「物を申したい」という意味のことではなくて、何か、わからないけれど、自分の言葉で、伝える価値のある物語が、どこかにあるような気がしていた。

誰かに聞いてほしくて、そして共感してほしくて、でもすぐ近くにそういう人がいないような気がしていた(いたのかもしれないけど、話そうと思わなかった)ために、世の中に発信したかったから、文章を書いていた。小説の類は、途中で自分の書いたものがくだらなく思えてしまってなかなか完成しない。短い文章や散文詩のようなものは、体調の優れない夕方などにいくらでも書くことができた。そういうものを、文芸誌に送ったり、賞に応募したりしていた。いくつか掲載されたり、小さな賞の最終選考に残ったりして、そういうことを以ってして初めて私は「自分の持っている物語」が少なくとも、ある程度の価値があって、誰かが興味をもってくれる・共感してくれるということを実感することができた。だから、もっとがんばろうと思った。淡々と、静かに。

今は、そこまでの苦労をしなくても、つまり「誰かに選ばれる」というような不確かで受動的なプロセスを通さなくても、自分の意思と行動で、世の中にこうやって考えを発表して、反応をもらいやすくなったと思う。「目指している賞の一次選考を通過する」という証明がなくても、「たくさん『いいね』と言ってもらえた」ことである程度の安心感を得ることができる。

SNSを眺めている時間が増えた代わりに、文章を書いたり、ああでもないこうでもないと考えたり、自分のやっていることが誰にも認められないような気がして不安になったり、なんだか周りに誰もいないような気がして寂しいと感じたりすることが減った。なんだか常に、色々な人とつながっていて、色々な情報があって、何か思うことを書けば反応がもらえる。とてもすばらしいことだけど、渇望感が減る場合があるのではないかと思う。

 

私は極端なことを考えるのが好きで、話を大きくする癖がある。なのでここでも極端な例を出してしまうけれど、例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチっていうとてもすごい方が昔、地球にいらっしゃった。私はあの人のことがなんとなく好きだから、上野公園で昔やっていた「ダ・ヴィンチ展」なるものに学生時代に行ってきた。そこで、「人間は飛べるはずだ!私にできなくても、いつか誰かが飛ぶに違いない」という言葉が紹介されていた。

一生をかけてあらゆる研究をして、あらゆる成果を出してきたダ・ヴィンチさん。絶対にこうである、という信念があって、それを確かめ、実証したいという強い想いがあってこそのあの生涯だったのかなと当時感じた。

 

ところが、果たして彼が(ダ・ヴィンチさんは、そもそもそういうキャラじゃない、というのは置いといて。)、「人間は飛べるはずだ!」とか、「貴婦人の絵を描こうと思っておりましてね」とfacebookなどに書いて、いいね!とたくさん言ってもらい、「そうだそうだ!」「それは無理ですよ。この記事にもあります通り〜」「レオナルドさん天才!」「新しい絵、楽しみです!」などとたくさんの反応をもらい、それによって「ああ、わかってくれる人、いっぱいいるんだなあ」「やっぱり貴婦人っていいテーマだよな」と思って安心したり、「あなたの意見は◯◯の点から間違っています」などといちいち反論にたいして反応したりしていたら、あそこまでの成果は、あっただろうか。モナリザは完成していただろうか?そんなふうに思う。

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出展:salvastyle.com http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci.html

考えをそのままにしておかないで、文字にして発信して、色々な人の反応を得たり、共有したりすることはとてもすばらしいことだと思う。しかし一方で、良くも悪くも、「自分の言っていること・やっていることに価値がある」という安心感を得たり、「なんだかすごく言いたいことがあって、メラメラしていたけど、みんなにわかってもらえたし、いいや」と気が済んでしまったり、そういう効果を得やすい行為だと思う。

 

起業して仕事をしていると、自分のやっていることや目指しているものに、必要以上に自信をもちたくなることがある。正直言って成功していない起業家なんて、売れてないアマチュアのミュージシャンと同じ。本来であれば曲、すなわちその仕事が世に出て、世の中の役に立ったり、世の中の人に楽しんでもらったりしてこそ、初めて価値が発揮される職業だと個人的には思っている。

だけど、幸か不幸か、アマチュアミュージシャンよりも起業家のほうが、ネット上で発信したものを読んでもらえる機会が多く、たいしたことをやっていなくても、あたかもたいした人かのように錯覚することがしやすいように思う。そういうふうにしていないと、不安になってしまうこともあるのかもしれない。でも、むしろその不安こそが、大切なのではないか。不安とか切なさとか孤独感を味わいまくって、それでも自分のやっていることは正しくて価値があると、成果を出すことでしか世の中に認めてもらえないからこそ、出せる力もあるように思う。

 

自分から発信をしていくことは、仲間を集めたり、応援してもらったり、同じ想いの人と出会ったり、自分自身の意思を確認したりなど、色々と素敵な効果もある。だから、せっかくこの時代にいるのだから、積極的にやっていきたい。でも、それで自分が中途半端な満足感を得てしまったり、渇望感を欠いたりすることのないように、本当に本当の信念は誰にも一切わかってもらえなくてもちゃんと心の中に灯して、それを実際の成果で証明できるためにこそ、生きていきたいと思う。

 

結果を出さなければ絶対に理解されず、そもそも人の目に触れることすらできない、そんな状況だからこそ感じる渇望感から生まれた仕事や、発明や、小説や絵や音楽も過去たくさんあったはずだから。

魔法の力で、なんでも3つ叶うとしたら? – ほとんどの願いは魔法がなくても自分で叶えることができる


 

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せっかく桜が咲いたけれど、まだまだ寒い。私は冷え性なので、毎日湯船につかり、お風呂の半分に蓋をして、その上で本を読むのが習慣になっている。昨日、大好きな「星新一」シリーズを久しぶりに読んでいたら、「拾い上げたビンから魔神みたいなものが出てきて、呪いを解いてくれたお礼になんでも3つ願いを叶えてあげようと提案される」というような話があった。3つだけ魔法で願いが叶う、というのはよくある話だが、この主人公は「そんな非合理的な話なんかまっぴらだ」と結局はねつけてしまう。この話を読みながら、私はなんだか切迫した気持ちになった。というのも、自分が同じ状況に置かれたとして、何をお願いするだろうかということを深夜のお風呂でひとり、真剣に考え込んでしまったからである。

 

魔法のちからで、願いが3つまで叶う。

願いが叶う回数を増やす、とか、そういうのは無し。

さて、何がいいだろう?

 

まっさきに決まったのは「空を飛べるようになること」だった。私の昔からの一番の夢が空を飛ぶこと。それも機械などの力を使わずに魔法で飛びたいとずっと思っていた。魔女の宅急便のキキとか、アラジンの魔法の絨毯とか、ティンカーベルみたいなかんじで。こればっかりはどんなに努力してもどうやら難しいようなので(小学生の頃はよく練習していたのだができなかったので残念ながらほとんど諦めてしまった)、これこそ魔法で叶えるべき事案である。もし叶う夢が3つではなく1つだけだったとしても間違いなくこれを選択する。

さて、残り2つある。今度はもう少し現実的な考えが私の脳裏をいくつか駆け巡った。

 

間違いなく今の自分の人生における一番の関心事は仕事であり、自分たちが作っているサービスをなるべく多くの人に使ってもらって楽しんでもらって幸せになってもらうこと。だから、自社サービスのユーザー数が60億人とかになったら嬉しいな、と思ったりした。でもそれだけだと単発で終わってしまうので、いろいろなサービスのユーザー数を自由に操れる能力というのはどうだろうと思いついた。

でもすぐに、それはないなと思い直した。魔法なんかで仕事をうまく成し遂げた気になっても、確実に満足できないし、フェアじゃないし、そう考えると全然嬉しくないからだ。自分たちで世の中にあるテーマを見つけ出して、それを良くする・解決する・楽しくする手段を考えだして、つくって、試行錯誤して広めていった先にそのような結果が待っているからこそ意味がある。だからこれは、全然駄目。人生の中心のものが魔法で置き換わってしまったらやりがいが失われてしまう。

 

では、ディズニーみたいなレベルのロマンチックな恋愛はどうだろう?文字通りの、白馬の王子様と素敵な恋をする。白馬に乗ってなくても王子様じゃなくてもいいけど、「ピュアで真面目で若干シャイで仕事をすごくがんばっていて私に全力で超優しい」かんじの、私の理想の男性の化身みたいな人が現れて、考えられうる限り最高のデートに誘ってくれて、夢に出てくるくらい情熱的な恋を・・・

そんなことを考えていたら湯船のお湯が冷えてきていることに気づいて寒気がした。ので、熱いお湯を足して心底自分に呆れた。

これこそ本当にバカバカしい。魔法で恋愛したって何の意味があるのか?いわば作られた恋なんて、恋愛シュミレーションゲームをしているのと変わらないじゃないか。これも先ほどの例と同じで、魔法で叶えても本質的な意味が薄れるという事例に他ならない。

 

1つめは決まったけど、残りの2つが全然決まらない。ざっと考えたのは下記だった。

 

  • 自分の見た目や体型を自由に変えられるようになる・・・もうちょい太ももと二の腕を細くして、脚を長くして、髪質を良くして、まつげを長くして、等を全部決められる。 → ある程度は努力でできることだし、こんなことをやるのは魔法がもったいないので却下
  • 100兆円手に入れる → お金こそ自分の力で稼ぐことに意味がある(自分が世の中に提供できた価値の対価としてのお金しか欲しくない)と思っているし、べつにこれといった使いみちもなく、ハングリー精神が失われそうなので却下
  • 全世界の言語をしゃべれるようになる → 実際さしあたり必要になるのは英語とかだし、それだったらせっかく今がんばっているので、やりがいがなくなるので却下
  • 不老不死 → いつか死ぬのが決まっているからこそ人生はこんなに切なくも甘美なのではないか。却下。

 

このように考えていってわかったのは、魔法で叶える夢として適切なのは

①すごく叶えたいものであること
②努力しても叶わないこと
③叶えるまでの努力の過程に意味があるものではないこと

 

この3の条件をすべて満たしている必要がある。

 

でも、ここで私はハッとした。普段、ああしたいこうしたい、あれを達成して、自分はこうなりたい、こういうふうに生きていきたい、と願っていることってほとんど全部、魔法を使わなくても叶えられるし、しかも、魔法を使わずに叶えることに意味があるものばかりだということに気づいてしまった。

 

 

そのへんで私はいいかげんお風呂から上がり、急いで着替えて髪の毛を乾かしてから部屋の小さな椅子に座って改めて、「なんでも叶うとしたら叶えたいこと」をジャンル問わずノートに書きまくってみた。みなさんにも試してみてほしいのだけど、全能になったつもりで、魔法使いのつもりでこの作業をするのは本当に楽しい。そして一旦書き上がったものを眺めながら、「やっぱり」と思った。

 

私が願っていることはほとんど全て、魔法なんか使わなくても、努力で叶うものばかり。しかもその努力の手段もすぐに思い浮かぶものばかりだった。

 

自分のやりたいことを明確にして、そのために努力して、思い通りに生きていくことはそんなに難しいことじゃないという気がした。すごく前向きな気持ちになった。

 

 

 

図らずも、星新一のショートショートがきっかけで自分のやりたいことを「魔法が使えたとして」という観点で見直し、「魔法じゃなくても叶うじゃないか」と気づくいい機会になった。

 

さて、それで結局、残りの2つの願いはどうしよう?

熟考の結果、私が魔神に叶えてもらう夢は、この3つに決定した。

 

  • 空を飛べるようになる。
  • 宇宙人と友達になる。
  • 好きなときに透明人間になる能力。

 

 

 

 

 

 

それ以外は、自分の力で、なんとかする。

 

どんな文脈で出会ったかで、その後の人間関係が変わる。大切な相手こそ、六本木の変なパーティーで知り合ってはいけない。


昨日公開したインタビュー記事「女子だからと優遇されるのは、ビジネス面で負けてる証拠。女性起業家・関口舞に聞く。」に補足。女性が仕事的な意味では身の丈に合わないレベルの人に、「女子枠」で出会い、それを自分の実力による人脈だと勘違いする「人脈のフライング」について記事でもお話させていただきいろいろ反響をいただいたので、ついでに具体的な失敗談と自分なりの教訓でも書いておこうと思う。

photo by pakutaso

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大学生の頃、無邪気で世間知らずだったため、「いろんな社会人とか、有名な社長さんが来るからおいでよ!」と誘われた会合などに、純粋に勉強のつもりで、社会人訪問の気持ちで出席していた時期がある。たいてい、その有名な社長さんとやらは、ただ若い女の子と遊びたいだけというテンションで、女性陣も女性陣で、そういう男性との個人的関係を期待している人が多く、皆様があられもないような服装をしていらっしゃる中、OB訪問くらいのつもりでリクルートスーツを着て参加した私が完全に浮くというケースもあった。「お〜!リクスーって逆にエロいね(笑)」とか言われた気がする。世も末。本当に馬鹿げている。

そのようなことが、六本木ヒルズレジデンスとか、リッツ・カールトンレジデンスとかでも行われていた。「ピカソの絵がある」「〇〇の著者が来る」と言われて、その本のファンだった私はサインをいただくつもりで意気揚々と本を持参して馳せ参じた結果、最悪の光景を目にしてしまったこともある。シャンパンを飲み過ぎて床に寝そべっている女性の上におおいかぶさるようにして楽しそうにイチャイチャしている男性こそが、大変残念ながらその著者の方だった。お邪魔しても申し訳ないのでそっと本をかばんにしまって、せめてピカソの絵とやらを見てから帰ろうと思ってきょろきょろしていると、その絵というのは壁に立てかけて床に無造作に置いてあり、ストッキングを半分下ろした女性が絵にもたれかかるようにして眠っていた。

芸術家というのは、自分が生み出した作品をその後どう扱えるかまでは選べない運命である。私はピカソになりかわり勝手に心を痛め、さっさと会場をあとにした。色々な有名企業の方や経営者の方に名刺をいただいたけど、もう誰の名前も覚えていない。少なくとも、そんな会合で出会った女という意味では、私もそのへんでつぶれていた女性と同じカテゴリーに入れられてしまったと思う。残念の極みだった。すばらしいお酒やピカピカのグラスが無数に並んでいたが、そんな場で、ドンペリも、高いワインも全然飲みたいと思わない。水で結構。ワインは、素敵な人と、ゆっくり静かに飲まなければ。上等の赤ワインを大騒ぎしながらがぶがぶ飲んで口の周りを赤黒く染めて酔って潰れているなんて、なんの情緒もないし、しかも危ない。

 

これは極端なケースだが、基本的には、自分が何者でもないときに、六本木やら、麻布やらのどこかの変なパーティーなどで知り合った相手と、その後しっかりと仕事でご一緒するようなことはなかなか難しいと思う。私が当時もっとしっかりとした実力や実績があればその限りではなかったのかもしれないが、ただの女子大生がそういった下世話な飲みの場にいたら、普通に考えて「そういう女」として認識され、仕事軸では相手にしてもらえないだろう。そのような場から仕事的なメリットに持ち込むコミュ力を持ち合わせている人もいるのかもしれないけど、そのためには多少こちらも何か見返りを与えられないと厳しいケースも多いようで、そんなことで便宜を図ってもらうようなことは、自分の中の仁義にかけて断じて許せない。

まあでも本当に悪気はなかったし、仕方がない。完全無傷で済み、逆に大学生のうちにそういった場を見ておいたことで社会人になってからは一切そのようなことがなくなり、身の丈に合わない人脈フライングの意味のなさを早めに学べたのでよかった。ある意味ではすごくいい勉強にもなった。

 

同じ人間同士でも、会議室で知り合うのと、穏やかな飲み会で知り合うのと、気持ち悪いパーティーで知り合うのとでは、お互いがお互いに対してもつイメージやその後の人間関係は全く違うものになる。ピカソの絵のあったあの部屋にいた、女の子にシャンパンを飲ませまくっていたお兄さん方も、もしかしたら会議室で知り合ったらピカピカの切れ者だったのかもしれない。業界の穏やかな飲み会で知りあえば気さくないい人だったのかもしれない。

人は誰だって常に完璧なわけではないし、たまには羽目を外して女の子と馬鹿騒ぎしたいときもあるだろう。それは決して悪いことではない。しかし、仕事軸で素敵な人としっかり人間関係を作りたい女性は、先方がそういうテンションの場で、「初めまして」をしてはいけない。そういう場が好きで、普通にプライベートとして楽しめる人なら何の問題もないのだけど、私みたいに「運命の人が現れるまでは手さえ触れられとうございません」みたいなタイプの女は、ノリが悪すぎて先方にとっても迷惑なのでご遠慮申し上げるべきだ。

 

そういうわけで、麻布から会議室へ、つまりチャラい飲み会(先方が遊ぶ気しかない集まり)からビジネスへ、というケースはほとんどないので注意が必要だ。しかし逆に、会議室から麻布というのは素敵だなと思う。なんといっても仕事の場こそその人の能力が発揮されるのであって、仕事という文脈で知り合った人と、仲良くなって麻布なり、恵比寿なりで親しく飲むのはとてもすばらしい。もはやべつにお酒じゃなくても、コーヒーでも、ジュースでもいい。そんな機会は多くはないけれど。大切な人とこそ、だいじに人間関係をつくっていきたいなと思う。

 

私にとってサンタさんは「なんでも叶えることができる」ということの象徴だった。


24日の夜だから、多くの人が恋人と過ごしたり、家族と過ごしたり、素敵な時間が世界のあちこちで経過しているのだと思う。
私は今日の夜は子供たちがいちばんうらやましい。サンタさんが部屋に来てくれる、みなさんが。いつのまにかクリスマスはデートをする日という風潮になっているけれど、私にとってはクリスマスはあくまで奇跡の日で、せっかくだし静かに、あんなに私のことを喜ばせてくれた、信じさせてくれた、勇気をくれた自分の中のサンタさんに感謝する時間にしたいと思う。

photo by paktaso.com

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私にとってクリスマスイブは1年でいちばん好きな、特別な日だった。サンタクロースという人がきて、ほしかったプレゼントをくれる。現実的に考えてありえないことが実際に起こる、つまり魔法がほんとうになる日だった。11月の自分の誕生日よりもなによりも、12月24日の夜と、12月25日の朝が、一番楽しみだった。

サンタさんが私のことを「いい子にしているか」とどこかから見ていて、そして本人に直接話したわけでもないのにほしいと思っていたプレゼントを選んで、そして鍵をかけてあるはずの家の、私の枕元にそれをとどけてくれる。私だけでなく、世界中のみんなの枕元に。どう考えても無理なのに、現実に起こっているのだから、つまり魔法というものは実在するんだ、と。現実的に考えてありえないことを願う、叶うと信じることは間違っていないんだという証明の日。

24日の夜中には寝る前にサンタさんにほしいプレゼントを言うという習慣があって、私はいつも「第一希望は魔法の杖、第二希望は魔法の絨毯、第三希望は空飛ぶほうき・・・それが無理だったら、スマブラの新しいソフト」というようなお願いの仕方をしていて、そしていつも、最後に言ったものが届いていた。

24日の夜は夜中に何度も目が覚めそうになる。でもまだサンタさんがきていないかもしれないからと目をつぶったままもう一度寝ようとする。そんなことを繰り返しているうちにいつのまにかぐっすり眠っていて、朝が来て、目が覚めて、ついに、と心臓がきゅっとなる。カーテンの隙間から漏れる光でもうまちがいなく朝だということを確認して、仰向けのまま、緊張しながら、手を、枕元に伸ばしてみる。

 

包装紙の香り。四角い箱の手触り。赤い包みに緑のリボン。魔法が起きた証拠であるそのプレゼントを抱きかかえて、1年で1番、私は幸せだった。

 

2段ベッドの上で眠る弟を急いで起こしにいって、ふたりで大喜びする。あのときの記憶の中での私の弟はまだすごく幼くて、色が白くて私よりも小さくて、誰よりも最初に、一緒にこの幸せを共有する。それからふたりでパパとママを起こしにいって、サンタさんがきたと大騒ぎする。大きな音をたてて階段を走り降りて、朝ごはんも食べずにふたりでサンタさんにもらったゲームでさっそくあそぶ。

魔法は本当にあるんだと信じていた。サンタさんというものが実現するのであれば、私が魔法使いになることも、空を飛ぶことも不可能じゃないはずだって思った。

この記事を、こどもの人が読むかもしれないから、細かい事情は書かないけれど、色々あって私のところにはサンタさんは来なくなってしまった。
こんなことを言ったら笑われるかもしれないけど、18歳のクリスマスの朝に枕元に手を伸ばしてしまって、やっぱり奇跡なんてないんだ、そして私は来年から一人暮らしになるから、もう私のもとには一生サンタさんは来ないんだと思ったら、すごく悲しくなって、寂しくなって、すこしだけ泣いてしまった。

サンタさんはもうずっと来ていない。
たぶん今日の夜も。
もう何の言い訳もできないような大人になったにも関わらず、
明日の朝、目が覚めて、きっと枕元をみてしまう。

ただし。いずれにしても会うことができないのであれば、それが現実に、触れられるものとして存在するか否かは実はあまり関係がないのかもしれない。私にとってのサンタクロースは親切なおじいさんではなく、「魔法というものは実現しうる」ということの、「なんでも叶えることができる」ということの象徴だった。いまでもあらゆる物事に対して「できないことなんてない」と感じていることが多いが、あの頃に比べると減ってしまった。だから、こうしてしっかりと思い出して、その気持を薄めてしまわないことがたいせつだと思っている。

とはいえクリスマスには、何かとくべつなことが、それこそ「サンタさんが来た」というのに匹敵するような奇跡みたいなすてきなことが、起こるような予感が毎年してしまう。
せめて今日の夜は、私も、みなさんも、とびきりすばらしい夢をみて眠れるといいな。そしてサンタさんもそろそろ私のことを思い出して、また来てくれないものだろうか。今年、いい子にしていたと思うのだけれど。